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誰に褒められるでもない、けれど良い仕事。

だれもがみな褒められ足りていない。だからこんなにも憎しみや嫉妬が世の中に溢れているのだろうか。もっと互いに褒め合えばいいのに。でも実際は貶しめ合い、嫉妬し合い、辱め合う人間ばかり、みたいな世の中のように感じる。

どんな物事も、ムズカシイと思うとやってみれば案外カンタンで、カンタンだと安易に考えていると実際はとてもムズカシイものだ。もし今ぼくらの目の前にあるナニカが、あたりまえのような顔をして存在しているのなら、そのナニカはカンタンに生まれたもののようでいて決してそうではなく、きっと誰かによって練り上げられたムズカシイ仕事の成果なのではないだろうか。だれかの創意工夫や苦心の果てに人間の行為の文脈に沿った合理的なモノに仕上げられたからこそ、なんらの違和感を感じさせることもなく、また大きな存在感を放つ理由もなく、そのナニカはそこに平然とあるのだろう。

だれに気づかれることもなく、まして褒められることもなく、それでも静かに淡々と、良い仕事をしてきた人たち。そういう口数の少ない人たちによる良い仕事のおかげで今というときがつくられている。そのことに感謝すること、そのような仕事をする自分であろうとすることは、やさしいことではない。

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裏テーマ。

さあ書こう、というとき、テキストはいつもテーマを持っている。

テーマは、テキストを推進する力となる。けれど一方で、テーマがあるがゆえに、いろんなことが書けすぎてしまう(?)とか、どうもいつかどこかで聞いたことがあるような話に落ち着いてしまいそうになるとか、あまりうまくいかなそうな場面が生じることは多々ある。

そういうときには、なにか別の、やや遠いところにあるような条件を新たに設定する、ということを試したい。「裏テーマ」をあえて(だれに言われるでもなく)つくるのだ。例えば、テーマは「セーター」で、「記憶」を裏テーマとする。素材についてでもなく、編み方についてでもなく、「記憶」という第2の軸をわざと立てることで、セーターを語るテキストに思いもしなかった奥行きが生まれた、みたいなことになるときがある。

裏テーマについては必ずしもはっきりと書かなくても良いかもしれない。なんとなく想像するだけでも、意外なワードが入ってきたりして、テキストになんらかの影響が及ぶ。そうしてわずかな揺らぎのようなものが生じることで、テキストが煌めきだすのだ。

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プライベート・ロジック。

ロジックというのは誰にでもわかるものとして存在するのだろうが、案外とてもプライベートなもの、という印象がある。

多くの人が納得する展開に落とし込まれているとしても、ではそのロジックをどこからスタートさせ、途中にどんなファクターを配置するのか、その選びかたや並べかた、結論にいたる筋道の作りかたなどはすべて、ひとそれぞれで大いに異なるはず。

逆を言うと、どんなロジックであろうとそこにその人なりの血が通った個性みたいなものがなければ、そこにいきいきとした生命力は感じられないし、つまらないのではないだろうか。

20代の頃、コピーはロジカルに書くものと教わった。それから20年経った今もロジカルさがあってこそテキストは面白くなると思っている。けれど好みを言えば、そのロジックに多少の歪みがある、もしかしたら多少の破綻があるほうが面白いような気もしている。

その意味では、ぼくの好きなロジックというのは、とても人間味のある、ちょっとヘンな匂いのする、非ロジカルものなの、と言えるかもしれない。

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生き生きとした好き嫌い。

小林秀雄「様々なる意匠」に、こういう記述がある。

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「自分の嗜好に従って人を評するのは容易なことだ」と、人は言う。然し、尺度に従って人を評することも等しく苦もない業である。

常に生き生きとした嗜好を有し、常に溌剌たる尺度を持つということだけが容易ではないのである。

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好きか嫌いか、それは、ものすごく大切な自分のものさしであるのだよと言ってくれていると思っている。それはぼくらの仕事においても結構大事なポイントである。好き嫌いの価値観が最初から大きくかけ離れた人と一緒に、なにか好きなものをつくろうとするのは、最初からまあ大変というかムリがある。

逆を言えば、その意味では、「あ、これ、好き!」というものをお客さんと一緒に見たりつくったりするということがぼくらの仕事なのだ。そこに尽きるのではないか、と思う。

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かしこくありたい。

人生ではじめて犬と暮らして三年が経つ。

散歩したり遊んだりしながら犬をじっと見ている。興味深いのは、直感的判断を瞬時に行なっているらしいこと。おいしそうなら駆け寄ってきてむしゃぶりつき、好きじゃないなら興味を示さない。捕まえようとすると警戒心を強めて逃げようとする。

おいしいこと、大事なこと、危険なことを一瞬で察し、それに直結した行動をとる。生き物としてはふつうかもしれないが、同居人(犬)がそれをするのを間近で見ると「かしこいな」と唸ってしまう。

そして「かしこい」ってこういうことだったのか、と気づく。時間をかけて複雑なパズルを解くでもなく、強靭な論理を構築するでもなく。鋭く知覚し、直感し、ほぼ同時に行動すること。本能的にほしいものを欲し、危険らしいことは回避すること。それが「かしこい」だった。

理屈であーだこーだ考えるより、直感的判断こそがずっと大事。本能的なものを研ぎ澄ませ、直感を即行動に移すこと。そういうかしこさ、今からでも手に入れることができるだろうか?